苦痛脱却帳

苦痛や不幸から抜け出す方法を書いていきます

15:就職面接直前に過呼吸で辞退 その後別の場所に就職するも記憶喪失状態になる*

保健室登校

高校では保健室登校をしていた。(中学では保健室登校をするという発想がなかった。)高校で運動系の部活動に入るも、2か月半で部活でのいじめに耐えられなくなり辞めた。それと同時に保健室登校をするようになる。保健室に居るときは楽だが、久しぶりに教室に行った時のみんなの刺さるような目線が怖い。今日の教室に行くのも苦痛だが、今日休んで明日の教室に行くのも苦痛だ。授業に出席する間が開けば開くほどクラスの反応が怖いし、保健室に居たとしても苦痛を先送りした感じがして不安が募る。理想は普通の人と同じように全ての授業に出たいのだが、教室で一日過ごすのはかなり精神的に疲れる。なるべく間を置かずに頻繁に教室に行きたいので、1・2・3限出席して早退、3・4・5限出席(1・2限は出ない)、1・2・4・5限出席(3限休む)、等さまざまなパターンで授業になるべく出るようにした。
幸いにもこの学校は他人に嫌がらせするような人が少なかった。部活でのいじめは受けたが、クラスでのいじめは受けなかった。休み時間には厳しい毎日の部活で疲れ切って寝てる人も多かった。それに一応進学校ではあったので、英語と数学の課題が毎日毎日しつこく出される。部活を終えて家に帰ってから課題に取り掛かるのを嫌がる人が多く、授業と授業の間のわずかな時間で少しでも課題を進めようとしていた。(明日の朝提出の宿題が、今日の朝のうちに配布されるということ。学校にいるうちに課題を進められる。)それゆえ休み時間に友人とグループで固まって喋ってる人はクラスの3分の1から4分の1程度しかおらず、休み時間でクラス内でいじめが起きたり嫌がらせが起きたりすることはほぼなかった。文武両道を掲げた学校ではあったが、部活を辞めた後は他の部に入らず、勉強も出される課題以外はほぼせず、それでも時々発生する人間関係のいざこざの苦痛に耐え、高校生活が終わった。全授業の3分の2以上は出席でき、卒業に必要な日数ギリギリだったがなんとか卒業できた。

 

田舎を出て東京の大学に行き、一人暮らしをする。自分の通った大学は付属校上がりの人が多く、既にグループがある程度出来上がっていた。サークルは入ったが、うまく馴染めず2か月程度で辞めてしまった。そして案の定、自分のコミュニケーション能力の低さで大学の同じ学科の人との関係もうまくいかず。いじめはなかったが、班別で学習する授業の際に、全く予想だにしない人を激怒させ、関係が悪化し嫌がらせを受ける。またこんなことが続くのか・・・。

大学でうまく友人が作れないと、勉強面でも大きく影響を受ける。授業を1回休むだけで取り返しのつかないことになる。前の授業で休むと提出物や休講の連絡や教室の移動がわからないので、提出物を出せない、教室がわからず欠席、休講なのに大学に行くなど多々発生した。大学の保健室に行ったのは、大学1年の時で、人間関係ではなく、あまりにも勉強がしんどすぎるという理由で行ったように思う(理系だったせいもあり授業量が多かった)。最初は大学で保健室なんて行っていいものなのか疑問だったが、教諭は嫌がるそぶりなく話に乗ってくれた。保健室に行っても単位が取れるわけではないのが、大学の中に自分のつらさを受け入れてくれる人がいるというのは心強かった。最後にはこの場所がある。自分は成績が悪い上にに出席率も悪く1年留年してしまった。しかし無事卒業は出来た。


2公務員試験で過呼吸に(2013.7)


自分は公務員を目指していた。在学中(大学5年)で、A市役所とB市役所は1次試験(筆記試験)に合格した。両市は試験日がかぶっていたが、時間がずれていたので、2か所の面接を受けることが可能だった。1次試験の合格発表からあっという間に面接試験を受ける日が来た。しかし圧倒的にコミュニケーション能力不足の自分にとって面接はあまりにも難しい。面接が怖くて1次試験の合格発表から何も手につかなくなっていた。面接の練習をすることすら恐怖で先送りしていた。結局面接の受け答え練習は1回もできずに本番になった。想定問答集を300問くらい用意し、それを暗記して発言する練習はある程度行った。(そもそも回答の暗記自体面接の準備として適切ではないのだが・・・)今まであらゆるところで、自分が優位な状況になったら攻撃を開始する人間ばかりを見てきた。面接では試験官が圧倒的、絶対的に優位だ。面接なんてリンチと同じだろう。一度も面接を受けたことがないのに、どんな風に自分を責め立てられるのかの恐怖におののいていた。自分のような欠陥だらけの人間はコテンパンにやられるんだろうな・・・

本番当日、A市役所の面接試験25分。自分が圧迫面接や嫌がらせのようなものを想定をしていたので、想像よりずっとマシだった。しかし面接練習をしていないので言いたいことをうまく言葉として出せず、あまりにもひどい答えをしてしまっていた。そもそも声が小さかったし、表情も強張っていただろう。間違えた時の言い直し方も焦りすぎて不審だった(なんと他の役所の「○○局」の部署名を出してしまった)。凍り付くような面接室の中で自分の声だけが響き渡っている瞬間が今思い出すだけでも恐ろしい。無音の張りつめた空間で、自分だけが口を開けて声を出し、自分の声が響き渡る。話している途中に、自分の話してる声が気持ち悪いと感じ始めた。こんな声を面接官の耳に入れているのか・・・自信がゼロになる。面接途中で面接が完全に無理な状態に入り、合格したくてこの場に来たはずなのに、一秒でも早くこの場から立ち去りたい。苦痛の時間が終わってくれと思うようになる。

そして面接終盤で、あろうことか質問者の質問を無視してしまった(聞こえないふりをした)。前の質問の流れから、面接官「~だったんですね(笑)」自分「はい」面接官「~はどうですか?」自分「そうでしたね」面接官「~はどう思いましたか?」自分「ええ、そうでした」というように、今の質問「~はどうですか?」の対応を逃げて、前の質問「~だったんですね」に対しての肯定で乗り切ろうとしてしまった。会話能力皆無。面接官はあきれて質問を終えた。愚かすぎて話にならない。自分に呆れるし、相手に申し訳ない。当然合格することはなかった。当時の面接官の皆様本当に申し訳ありませんでした。

この日は面接がもう1つある。次はB市の面接試験。しかし次の会場へ移動しようとしたところで過呼吸の症状が出る。生まれて初めて過呼吸。かなり動揺した。とりあえず次の面接会場へ移動するために駅まで来たが、行くか行かないかを迷う。過呼吸の症状は起きたり起きなかったりだったが、面接どころではなかった。面接中に起きたらどうしよう。上り列車に乗って東京の自宅に戻るか、下り列車に乗って次の面接に向かうか迷い、迷いすぎて混乱しすぎて線路に飛び込んでしまおうかとも考えた。結局は悩んだ末に、就職を捨てて上り列車に乗って自宅に戻ることにした。体調不良という事で面接を休む電話を入れた。相手方はすんなり受け入れた。公務員を目指して、帰りが遅くなるまで公務員講座を受けてきて、1次試験も合格したにも関わらず、面接が怖くて自分で面接を辞退した。面接に出て落とされるならまだ経験として生きるが、自分で面接辞退の電話をかけるくらい無念なことはない。人生これ以上の下り坂がないのかと思ったのに、まだ下り坂が用意されていた。


3死ぬ予定を立てる

 

・面接中に質問者の質問を無視する
・面接の恐怖で過呼吸になり面接を辞退

 

人間としてこんなことありえるのか?聞いたことがない。世界で一人だけなんじゃないかこんなことしてるの・・・事が大きすぎてもう誰にも相談できなくなっていた。就職なんか無理だろう。大学卒業(2014.3)と同時に死のうと考えた。まあもう死ぬのは確定ということで、残りの期間(2013.8-2014.3)は就職活動にそれほど積極的ではなくなっていた。このあとの大学卒業までは、苦しいことも楽しいこともほぼなく、人生を消化するためだけに過ごした。
そして大学卒業。タイムリミットになった。しかしここで「今はまだ死ぬほど苦しいわけではない。まだ死ななくてもいいのでは?」と思い始めた。まだ生きて、最初の苦しみが訪れた時に死んだっていいじゃないか。4月、依然行っていた短期の採点アルバイト(中学)に応募、合格。4か月の猶予を得た。生きる期間を延長して最初の苦しみにぶち当たった時に死のう。採点アルバイトは自分に合っていた。ずっとPCを見ての作業。生徒の回答がスキャンされていて、それを基に採点するだけなので、ストレスが全くない。何より人と話さなくてよい。目が疲れるのと、同じ姿勢なので身体が疲れるくらい。7月の雇用期間満了までの間、苦痛に感じる事はなかった。この仕事ならずっと続けられそうだが、あいにく毎年4月下旬~7月頭くらいまでしか雇用期間がない。結局この期間に死ぬほど苦しいという事が訪れず、途中からは普通に就職活動を再開することにした。


一番困ったことは、『死ぬ前提で生活した後、生きると方針転換した場合に、人生を取り返すのがメチャクチャ大変』だということだ。ほんの少しでもわずかでも生きる可能性があるのならば、生きる前提で行動した方がいい。自分の人生に2014年4月以降が存在すると思っていなかったわけだから、学生生活の比較的余裕のある中でも就活をほぼやっていなかった。未来のために大学の専門科目の復習をしてもなかったし、何かしら自分を生かす長所を伸ばすこともなかった。お金も溜めてなかった(別に死ぬから全部使おうなんても考えてはいなかったが。)

 

人生なんてどうでもいいと思っていたのだが、生きるからには人生の苦痛はなるべく避けたい。そのためには「就職先」を少しでもいいところに入りたい。本当に大丈夫な会社なのか?もう少し粘り強く調べた方がいいのでは?十分時間をかけなければ・・・。しかし就職しないまま時間が経つと不安を感じ始める。振り返れば結局何も進んでいない。

2014年9月、正社員を決め切ることができず、とりあえずアルバイトを始めることにした。思い切った決断ではあったが、かねてから自分のしたいことの一つであった個別指導塾講師(アルバイト)をすることになった。生徒に1対1の横並びで授業をする塾だ。元々人に何かを教えるのは好きな方だ。それに採点のアルバイトで、中学生の惜しい回答をたくさん目にして、教えたいという思いが湧いてきたのも後押しになった。これは今まで大学で学んできた専門分野とは全く関係がないことだ。採用にあたって簡単な筆記テストはあったと思う。面接は簡単なもので、どの教科を教えられるか、週何回授業に出れるかなどの簡単な面談だった。自分は中学の数学を教えることになった。

しかし残念なことに自分の会話能力がなさすぎた。それに知識もなかった。自分が想像していたより中学の知識が抜け落ち、中学生の頃の感覚を忘れていて、どうすれば喜ぶのか、何が楽しいのか、生徒が何を望んでいるのかがわからない。それに生徒の学問の進行を全て自分一人に任され、テストがいつあるのか、小テストがいつあるかなどすべて聞き出さないといけない。その辺は担当の人が一括してやっているのかと思ったが、授業以外にもやることは多い。受け持った生徒は悪い生徒ではなかったのだが、反応が鈍い。「はい」「うん」「(首を振る)」だけで手ごたえを感じ取るのが難しい。相手の反応をうまく引き出す能力も自分にはなかった。自分の授業がズレてるからいい反応がこないのではないか?自分がやっていることが本当に合っているのかどんどん不安になってくる。

とにかく受け持った生徒を損はさせてはならないし、自分自身が問題がわからない状態もあってはいけないので、45分(一コマ)の授業に対して3~4時間の予習をして、声を出してコミュニケーションの練習をした。そうでないと授業ができない。授業が一コマあるだけで、前日・2日前から気になりだしてしまう。慣れてきたら授業数や担当生徒数を増やそうと思っていたが、全く増やせなかった。1週間に45分とか90分しか仕事できないというほぼニート状態。それにも関わらず準備と授業時間に大きなストレスを感じていた。

個別指導塾続くかと言ったら、続かないことが明白だった。2か月近く勤めたが、辞職を決意。ここで思い切ってフルタイムの正社員になろうと決めた。

 

4正社員として就職(2014.12)


ほとんどの人が当たり前のように正社員として就職して、こんなにも厳しい社会を生き抜いている。みんなどこから仕事に行く活力が湧いてくるのだろうか?人生に楽しいことがあるのだろうか?正直言って自分の人生に楽しいことなど、ない。会社には保健室登校がない。会社の誰も自分の苦しみを理解してくれない。誰も味方になってくれない。正社員になるのは一大決心が必要だった。ただでさえ苦痛だらけの人生にまた苦痛を上乗せするのだから。「ここに面接したいです」といえば採用までの道ができる。採用されたら、40年の地獄が始まる。面接したいと言い放つことは自分の手で地獄の幕を開ける事と同義だった。就職なんて40年間社会からリンチされ続けるようなものじゃないか。

ハローワークの担当の人は優しかったが、あまり積極的に応募していない自分に疑問を持たれて、その消極性を指摘されていた。自分が「甘えてますかね?」と聞くと、「うーん・・・まあそうだね・・・」と答えた。やはりさっさと決めるのが普通なんだろう。

このころの自分はハローワークを勘違いしていて、ハローワークから企業へ、申込者の情報のタレコミみたいなものがあると思っていたので、絶対にハローワークで自分の弱みを見せないようにしていた。心療内科に通っていることや、過呼吸の症状が出ることも言ってはいない。それを伝えれば、タレコミでなくても、応募したら自分の言った事全てが、自動的に企業側に情報として送られると思っていた。(※ハローワークで就職希望先の申し込みすると、情報を相手先に送りますねと言われる。のちにわかったが、この時送っているのは、氏名・電話番号・生年月日・メールアドレス等本当にささいな情報しか送ってないとハローワークの人に聞いた。ハローワークでさんざん受け答えしてハローワークの情報端末に載っているはずの職歴すら送られない。)

個別指導塾のアルバイトが続かないとわかり、いよいよ踏ん切りがついたときに、ハローワークからの紹介があった東京の建設会社に面接を受けると決意した。卒業した大学の学科(土木・都市工学)から考えると、就職先は公務員の土木系の職・建設会社・建設コンサルタントが一般的なので、ハローワークの担当者に何度もそのルートをお勧めされたし、建設会社に自分が就職したということは一般的な流れではある。

面接の準備は、A市役所B市役所の面接の時よりはかなり準備できていた。面接の覚悟もできていた。しかしこの会社は面接でなく顔合わせのような非常に緩い面接だった。趣味や最寄り駅、出身地などの質問の後は、「なんでこんな時期に?(4月入社ではなかったので)」というような至極真っ当な質問に答えるだけで、すぐ入社後の話や仕事内容の話に移る。志望動機なんかはついでみたいな感じで聞かれた。時間は約20分間。最後に「本当に(うちで)いいの?」と聞かれ「はい」と答えた。これははっきりと覚えている。翌日に合格の電話が入り、2014年12月から就職することになった。もし会社を辞めたら履歴書に傷がつくだとかで、就職指導された現役大学生や新卒は大いに気にするだろう。まあそもそも自分の場合卒業後はアルバイトしかしておらず、空白だ。だがアルバイトをしつつ就活をしたと取り繕うことは出来る。しかし就職後に短期間で辞職したら、全く取り繕うことができない履歴書の大きな穴になる。意地でも辞めないように決心した。絶対に3年は続けよう。(3日・3か月・3年が、仕事を理解できる目安、仕事を辞めたくなる目安等によく使われるので、3年をまず目標に据えた。)このまま長く続いてもいいし、建設会社である程度勤めた後、経験者採用として公務員(市役所や県庁)の土木職に転職する道もある。

過呼吸の対象方法も身に着いた。脳に真っ白な紙を思い浮かべてそこから脳全体を真っ白にして、今苦痛に感じていることについて考えるのをやめる。これで9割止められた。止まらなければすいませんと言ってその場から離れよう。

派遣された事務所は、まだ現場の工事が動き出しておらず工事の準備段階だった。それゆえ雑用係のような感じの仕事をした。コピーをとる、ファックス送信、テプラ印刷、ラミネート加工、資料のファイリング、インターネットで事務用品の購入(インク・紙など)、電話の受け取り、机・床・トイレ掃除、洗い物、ゴミ出し(事業所用)、コーヒーをつくる・出す、簡単な現地測量(道路幅確認)、現場写真撮影、通行止めの看板製作、CAD(設計製図ツール)操作の練習、住民説明会とその準備など。現場が動き出すのは2月からだった。

体がなまった状態での、いきなりフルタイムの拘束。慣れるしかない。やるしかない。自分は過呼吸や就職の恐怖、降りかかる不幸を理由に甘えていたのかもしれない。入社一日目から必死に勉強した。渡された新入社員向けのマナー本と建設業の新人社員のための本を読む。それから大学の専門科目の勉強。渡された本は全部読んだが、大学4年分の勉強はすぐに終わるわけがない。普通の人は大学で頑張っていた。大学で頑張っていない自分は今取り返すしかない。日々の自由時間はとらなかったし、休みの日に息抜きもしなかった。大学4年間の勉強で知らない事は一つもないようにしなくては。いくらやってもきりがない。無限に時間が必要だ。もっと先まで勉強して貯金を作っておこう。そのために睡眠時間を削って少しでも勉強時間を確保するしかない。

5:30頃に起きる―6:45に家を出る―7:30に現場事務所到着―8:00に仕事開始―17:30に仕事終わり―自宅には19:00頃に着く―夕食とシャワー終えて19:30ー(勉強)―3:00頃
もはや会社と家の往復ではなく会社と会社の往復のような状態になっていた。今まで睡眠時間は7時間だったのを2時間~3時間半に減らした。
なぜここまで振り切れてしまったのか。
土木工学系の大卒社員というのは建設会社に就職した瞬間に指導的な立ち位置になる。
就職したばかりで現場知識が一切ないのにも関わらず、下請け会社の気性の荒い建設現場の職人たちを指導する立場になるのである。指導する立場ではあるのだが、わからないことは職人に教えてもらえと言われた。職人に教わるって、自分が1日で辞めたあの短期アルバイトと一緒じゃないか。職人と関わると言ってもそこまで濃密に関わるとは正直あまり考えてなかった。あまり深く調べていなかった。やばい、うまく仕事を進められないと一日で辞めた建設現場アルバイトで会ったような人に攻撃される!自分は新人な上にコミュニケーションの能力がない、間違いなくいじめや嫌がらせの対象だ。会ったこともない人に対しての予期不安がどんどん募る。今は先輩は親切だが、急にはしごを外される可能性だってある。全て自分一人で解決できるようにならなければ...…あの1日で辞めたアルバイトの時ように責め立てられるより、今つらくても睡眠時間を削って勉強したほうが絶対いい。知らない事はあってはならない。そう考えてどんどん睡眠時間と自由時間が削られていった。自分はこんなにも頑張れるのか、もっと頑張り幅を増やそう。自分の限界に挑もう。恐怖心で無理矢理体が動かされていた。

 

5記憶喪失状態から回復まで


わずか1か月半(約50日)で記憶喪失の症状が出た。自分は普通に仕事中だった。急にパっと電気が消えたような感じで、脳から情報が一切なくなる。衝撃だった。全ての物がまぶしく光って白く見える。キラキラと新しく新鮮に見える。頭痛はない。旅館や他人の家で起きた瞬間、一瞬(なんだこの場所は?あ、今日泊まりに来てたんだったな)となる事があると思う。起きていたのに急にその現象が起きた。ここは会社で、仕事をしているのはわかった。しかし今より前の記憶が掘り返せない。過去を思い出そうとしても、断片的な記憶を暗闇から探し出すような感じ。全てにもやがかかっているようだ。たった30秒くらい前と時間が繋がっていない。今日何をしたかすっかり忘れていた。じっくりじっくり10倍くらいの時間をかければ、これをやったよな・・・と思い出せるのだが。なんとかして今日家に帰らないと。幸運なことに当日は立て込んだ仕事はなく、仕事時間もあと2時間を切っていたと思う。何もすることはなく、自分は現場資料を読んでいる状態だった。資料や事務用品などの物の位置も記憶から消えかけていた。どの引き出しに何を入れていたかの記憶もなくなった。とりあえずその日はあまり話しかけられないことを祈って過ごした。2~3回会話したが、一応時間がかかったが受け答えできた。同じ事務所で働いていたのに、同僚の名前もすぐ出てこなくなり、メモを見るような状態になった。

その日は毎日通勤してたにも関わらず、帰り道が初めて通るルートのように戸惑った。行先を5回6回確認して間違えないかしっかり見てから電車に乗った。過去を思い出せないだけでなく、次々に新しいことも(今起きたことも)忘れてしまう。脳が完全に壊れていた。家まで帰る中、これからどうしようか考えた。過去の記憶、旅行の思い出なども9割以上消えていた。すべて終わりだろう。家に着いたらどうやって帰ってきたかも記憶が飛んで行ってしまっていた。翌日は体調不良という事で休み。3日後予約が取れた心療内科に行く。心療内科で「抑うつ状態」との診断をもらい、1か月休業することになった。休業申請ために本社に行った。

家に居ても全ての作業を慎重に行った。コンビニで買い物をすることは出来た。起きてテレビを見て寝るだけの生活。日常生活はじっくりじっくり考えて行動すればかなりスピードは遅いが何とかなった。やったことをすぐ忘れてしまっていたので、この期間の記録がないのが残念だ。まあ記憶が戻らなくても仕方ないんじゃないかと思っていた。こんなにひどい人生だったから最終的に記憶をなくす人生でもいいや。

しかしそんな生活を続けて2週間、驚いたことに記憶が回復してきた。記憶は戻ってきたが、もう建設現場の仕事はしたくないと思い、1か月の休業期間終了の後に辞職を決定。結局あんなに怖がっていた職人と接触することもなく会社を辞めることになった。事務所に自分の持ち物を回収しに行った。「大丈夫か?」事務所の同僚に声をかけてもらい、なんとも申し訳ない気持ちになった。勝手に無理に勉強して2か月持たずに体壊して辞職とか、本当に不甲斐ない。本社や事務所の社員の多くが、たった1か月半程度しか会社に勤めていない自分のような人間を心配していた。本当にもっとうまくやっていればよかったのにと思った。

病院に行き、脳のMRI検査をしたのだが異常なしと判定された。病院の検査予約が埋まっていてなかなかとれず、検査の頃には脳の記憶が戻っていた。自分の脳が記憶を失った時どうなっていたか気になるが、わからないまま終わった。

12月頭から就職、翌月1月下旬に記憶喪失が発生して休職、2月下旬に退職。何しに来たんだと言われかねないような事態になった。3月にはほぼ前の記憶力にまで回復していた。人間の体に驚かせられたが、かなり危険な道を辿った。無理をしてはいけないと皆言っているが、本当に無理をするとどうなるか、理解した。