苦痛脱却帳

苦痛や不幸から抜け出す方法を書いていきます

41:小学校教師から嫌がらせを受けた話

小学校の行進練習で晒し上げられる
小学1・2・3・4年を担当した担任の先生とはとてもいい関係を築いていたのだが、小学5・6年の担任教師とは、全くうまくいかなかった。自分は歩み寄ろうとしていたつもりだが、全て無駄だった。相手(教師側)が一切その気はなかったようだ。自分は当時、小学2年の頃から塾に行っていたので勉強の成績はよく、学年で1位をとることも多かった。担任教師(女性)は、(特に男子の)運動ができるタイプが好きなようで、それが癪にさわったのかもしれない。授業中挙手してもなかなか当てられず、まわりの人と笑顔で会話していても、自分との会話する時だけ急に表情が真顔に変わる(今でもその真顔を覚えている)。それか嫌なものを見ているように眉間にしわが寄った顔をする。三者面談や家庭訪問の時だけ、人が変わったようにいい顔をする(その時だけは自分に何度も笑顔を見せた)。本当にこんな信用ならない大人がいるんだと驚いた。

終業式か卒業式の練習の時間だったかと思うが、体育館(おそらく25m×35m程度の広さ)で行進の練習をすることになった。いい行進を見せれば早めに練習が終わるシステムだった。26人全員で行進をし始めて、一周した後に教師に名前を呼ばれた人は行進の集団から抜けることができる。そして座って他の人の行進の練習を見つめる。自分はなかなか名前を呼ばれず、前を歩いている人のコピーのように歩いていても、前の人だけ先に名前が呼ばれて、自分の動きの何が悪いかわからない。15人、10人…どんどん人数が少なくなり、焦りが出てくる。「腕を大きく振って」「視線を前に向けて」といった指示に応えて修正していたのだが、アドバイスがそれくらいしかなく、6人、4人…と減るも一向に名前が呼ばれない。ついに最後の最後まで名前が呼ばれず、最後の何周かは、何が悪かったかアドバイスもなく「もう一回(一周)」とだけ言われ、何周も何周も同級生の前に晒し上げられた。早い人は体育館4~5周で合格していたように思うが、自分は20周はさせられたのではないかと思う。みんなの視線を浴び、何が悪いかわからず行進させ続けられて、恥ずかしさと悔しさで泣きたくなった。地獄のような時間だった。

陸上のタイムを都合よく並び替える教師
(40:人と目を合わせられない/小学生時代に活躍してほしくないと言われた)に記述したが、小学5年の終わりか小学6年の初めの頃から、自宅の近所をランニングし続けていた。ド田舎の小学校で、1学年はわずか26人(男13女13)だった。小学6年の持久走(1000m)タイム測定で、前回まで男子13人中10位~12位だった自分が、突然13人中2位をとった。練習の努力が実り成果が出た。

自分が持久走で2位をとった後に地区の陸上大会があった。陸上大会では複数の小学校が集まって対決する(おおよそ男子90人・女子90人)。持久走の走る組と並び順は事前に各小学校で計ったタイムで決まる。しかし、担任の教師は自分の小学校で出た2位の人間と3位の人間を勝手に入れ替えたのだ。計測タイム自体を操作して届け出たわけではなく、2位のタイムはお気に入り児童Aが出したタイムとし(本来は自分が出したタイムなのに)、3位のタイムは自分が出したことにされていた。(これ以降はお気に入り児童はAと呼ぶことにする)
あのタイム測定の日に、自分が2位でゴールした直後に後ろを振り返って見ていたら、3・4・5・6位がほぼ横一線での同タイムゴールだったので、普通に考えれば陸上大会でもその4人(3位~6位のメンバー)は並びのはずだったのだが、90人全員の名前が載っている出走表(出走表というのが適切な言葉なのかはわからないが)を見た時、4人の並びの中になぜか不自然に、離れてゴールした自分がはめ込まれていた。この教師が不自然な入れ替えをしていることは、3・4・5・6位のメンバーが横一線のゴールだったことと、1位~6位のメンバーを自分が覚えていたからわかったことだ。ちなみにAは全く気にしていなかった(自分が有利になるだけだから関係なかったのだろう)。

持久走は30人くらいの集団でスタートする。男子90人は3組に分けられ、自分もAも一番早い組に入った。その組の中でも、タイムの早い順で陸上トラックの内側から出走できるのだが(前列15人後列15人)、自分をなるべく不利な外側に、Aを有利な内側にしたかったのだろう。小学校では順位の差はたった1でも、陸上大会では、当然自分とAが隣なわけではなく、タイムの差により、自分とAとの間には他の学校の複数の選手が入り込んでおり、損の幅は大きい。自分のお気に入りの運動の得意なAが、こんな嫌いで運動のできないはずの児童に抜かれたという事実が許せなかったのかもしれない。
この順位操作には、何日間も何週間も何か月も悔しいし腹立たしい思いだった。しかし最終的にはこの教師と関わるのが面倒だったので何も言わなかった。問題を指摘し、この教師と対決することになったら、負けてしまう。それに教師とその対立状態を維持するなんてことは小学6年生にとってはものすごく大変な事である。どうすればいいか一人でかなりの時間をかけて考えた結果、何も言わないことに決めた。(たぶんこの時指摘していたとしても、自分が2位だったという証拠がない(写真・紙資料)。それに「総合的に考えてこれがいいと思った、前の記録と合わせた、もう提出したから変えられない」などと逃げるだろうと思う。)
なぜ当時の状況を詳しく覚えているかと言うと、その操作された当時の出走表を持っているからである。自分は小学校~高校までのすべてのおたよりや学校からの配布物を保存しているので、その出走表を見た時に思い出した。

教師、最後の悪あがき
当然この教師とは全く関係が改善しないまま終わった。そして最後、小学校卒業後の最後の登校日にも何か自分にトラウマを植え付けたいと思ったのだろう。最後の帰りのあいさつが済み、帰宅していい状況になった。最後に小学校の教室で使わなくなったもの(壁の張り紙・図工の工作の残り物・レクレーション活動(学活)での残り物等)を集め、教師が「好きなものを持って行っていい」と宣言したことにより、まだ教室に残っているたくさんの人が集まってきた。自分も何か面白いものがないか探しながらも、教師が隣に居たので、自分が「これもいらないものですよね?(持って帰っていいんですよねの意味で)」と聞いたら、急に「いらないものだなんてひどーーい!」と教室に響くような大きな声でヒステリーのように騒ぎだして、わざとすごく悲しい顔をしてきたのである。しかしこの時はもう関係が悪化したところでもう会う事はないので、かなり心の余裕がある状態で接することができた。反応の大げさっぷりに呆れた。そのあとどんな会話になったが覚えてないが、「誰も持っていかなかったら捨てるものなんですよね」というようなことは言った気がする。
周りの人はどういう反応をしたのかと言うと、自由に持って帰っていいものの争奪戦(じゃんけん)をしていて相手にしなかったり、先生関係なしに帰ったりして、一人も反応しなかった。自分は周囲の無関心っぷりに救われた。こいつを責めよう!と教師が旗振り役をして大きな声を出して、みんなその声が聞こえてるはずなのに誰も教師の味方にならない――本当にこの教師は皆に好かれていたんだろうか。他にも特定児童への贔屓っぷりにうんざりしていた人はいたのかもしれない。それか責め方があまりにも無理筋だと小学生に見破られたのかもしれない。それにしても自由に持ち帰りOKのものに対して「いらないものだなんてひどい」と大げさに騒ぐのは厳しいし、どうしようもない大人なのだなと感じた。そのあとも「なんでそんなこと言うのーー?」と謝らせようと絡んできたのを避けて小学校を出た。これが小学校最後の日の出来事だ。

これだけ好き放題する小学校教師が居ることを考えると、今現在の小学生は大丈夫なのか不安になる。三者面談・家庭訪問では何一つわからないので、親は教師にもっと警戒した方がいいのかもしれない。そして多くの子供は聞かれない限り何も言わない。自分も上三つのエピソードは今でも一つも親には言っていない。